Vol.159 |学友会教育研究所 所長 堀川 文夫

堀川 文夫さん

地に根を下ろして

3月11日。私たちにとって決して忘れることのできない、忘れてはならない日が、今年もやって来る。現在富士市に住む堀川文夫(ほりかわ ふみお)さん貴子(たかこ)さん夫妻が9年前の東日本大震災で被災した場所は、生まれ育った福島県双葉郡浪江町。東京電力福島第一原子力発電所から8キロのところにある自宅は、原発事故の影響で生活することができなくなり、堀川さんは過酷な避難生活を経て、縁もゆかりもなかった富士市に根を下ろした。

受験や偏差値だけではなく、主体的で創造的な人格形成に主眼を置いた私塾を20年以上にわたって経営し、浪江町(なみえまち)の豊かな自然や風土を愛してきた堀川さんは、最も大切にしてきた故郷を失い、生業を失い、人間関係を失った。それがどれほどの悲しみなのか、想像するだけで胸の詰まるようなインタビューとなったが、それでもなお、堀川さんは笑顔を交えて優しく語る。「お世話になった富士市の皆さんにとって大切なものを守るために、伝え続けること。それが私の役割です」と。

これまでに幾度となくお話しされてきたとは思いますが、東日本大震災の発生直後の浪江町はどのような状況だったのでしょうか。

地震や津波の被害全般については、情報として多くの方がご存じだと思いますが、まさに未曾有の大災害でした。私の自宅は津波の被害こそなかったものの、あちらこちらで瓦が落ちる音や壁が崩れる音が聞こえて、大きな余震が何度も続きました。転倒して骨折してしまった妻を病院に連れていこうとしましたが、津波で流されて真っ黒になった人々が絶え間なく運ばれてくる中で、とても受診できる状況ではありませんでした。

そこで一旦は町内の高台に避難したのですが、津波が国道6号線を越えて何度も押し寄せてきていることを知った時、私が強く思ったのは、『きっとあの原発は壊れたに違いない』ということでした。旧ソ連・チェルノブイリの原発事故などを踏まえて、震災以前から原発の安全性に疑問を持っていた私は、事故が起きた際に発生する放射能汚染の危険やその対処法について学んでいました。だからこそ、今はとにかく遠くへ逃げなければと決断することができたんです。

亡き両親が建てたかけがえのない生家ですが、もう二度とここに戻ることはないかもしれない、そんな予感がして、自宅の前で手を合わせてから、骨折したままの妻と、飼っていた犬と猫を車に乗せて、ひたすら走り続けました。3月11日の夕方6時頃のことです。給油待ちで大行列のガソリンスタンドに何度も並びながら、翌朝、栃木県の那須まで逃げたところで、原発が爆発したという事実を知りました。

浪江町の塾の集合写真

浪江町の塾では毎年、山形県で1週間の林間教室を開催するのが恒例行事となっていた。写真は2010年8月の子どもたち。みんなが揃う「最後の」夏休みとなった。

あの震災や原発事故を体感した方にしか語れない緊迫感が伝わってきます。突然の避難生活を強いられた中、どのような経緯で富士市に住まいを持つことになったのですか?

しばらくは埼玉の親戚の家に身を寄せていましたが、仮設住宅やアパートに入りたくても、犬と猫を連れていたため借りることができませんでした。そんな時、友人に紹介してもらったインターネットの避難先紹介サイトで、ペット連れでもOKで10ヵ月という長期間、無償で借してもらえる一軒家を見つけました。その場所がたまたま、この富士市だったんです。

知らない町に住むことへの戸惑いはありましたが、とても親切な大家さんが何も持たない私たちのために家電や布団などをすべて用意してくださいましたし、富士市で出会った多くの方がさまざまな形で私たちを支援してくださいました。本当にありがたいことです。これも何かのご縁だろうと、その後富士市内に中古住宅を購入して、現在に至ります。

実は去年の11月に、浪江町の自宅を解体するための打ち合わせをしてきました。建物は大規模半壊という認定で、無人の間に野生動物の棲家となっていました。自宅の解体でようやく踏ん切りがついたという思いもありますが、それでも時折気持ちは揺らぐんです。一時帰宅で浪江町に戻ると、ご近所だった皆さんに『いつ浪江に帰ってくるんだ?』と聞かれます。干していた洗濯物も、昼ご飯の食器もそのままで逃げてきたあの日以来、誰がどこに避難したのかも分からない状況に陥ったことで、地域のつながりはバラバラになってしまいました。

現在は帰還困難区域を除いて避難指示が解除された浪江町ですが、当時21,000人いた町民は現在約1,000人です。そのうち数百人は復興労働者として外部から入ってきた人たちなので、実際の町民は800人程度、しかもそのほとんどが高齢者です。それでも浪江に戻ったお年寄りはこう言うんです。『ああ、浪江に帰ってこられて良かった、ここで死ねるから幸せだ』と。私たち夫婦もお墓は地元にありますので、亡くなれば浪江に帰ります。元・浪江町民の皆さんとは『骨になったらまたご近所さんだから、それまではお互いの場所で頑張って生きようね』って励まし合うんです。ふるさとは、何があってもやっぱりふるさとなんですよね。

ふるさとの大切さ、それを理不尽に奪われた悲しみを記したのが、堀川さんご夫妻が2017年に制作・出版した絵本『手紙 お母さんへ』ですね。

富士市での暮らしが始まった後、見通せない今後への不安や生活のストレスから、妻が精神的に不調をきたした時期があり、さらに追い打ちをかけるように、愛犬の桃ががんで亡くなりました。そんな中、浪江町の自宅の片付けを東京電力に手伝ってもらう機会があったのですが、20人以上の作業員が家の中のものを庭に出してきて、汚染土を運搬する際に使う黒いフレコンバッグに次から次へと放り込んでいくんです。私が幼い頃から大切にしていた物や、両親との思い出の詰まったアルバムなど、何もかもです。ガチャンガチャンと無残に壊され、捨てられていくその音が、まるで自分の身体の一部を引きちぎられていくように感じて、さすがに涙をこらえることができませんでした。

その時の私の姿を見た妻が、『この出来事は記録に残して伝えないといけない』と決意したんです。当初は絵本ではなく文章だけの予定で妻が書き始めましたが、 そうするとどうしても感情が入りすぎて、押しつけがましい記述になってしまうんですね。そこであえて犬の桃の目線で描いたストーリーで、絵本の形にしました。

ところが次に問題になったのは絵の方です。妻が文章を書いて、私が絵を担当することになったのですが、もともと絵心がないため、何日もかけて頑張って、表紙の絵を1枚描くのがやっとでした(笑)。これじゃいつまで経っても完成しないぞということで、かつて浪江町で運営していた塾の卒業生や、富士市で勉強を教えている子どもたちに声をかけて、さらには私の子どもや孫も含めた総勢19名で、分担して絵を描いたんです。

最初は自費出版で1,000部印刷したところ、新聞に取り上げていただいたこともあってすぐになくなり、これまでに3,850部まで増刷しています。郵送の際は1冊ずつ私たちの手紙を添えてお送りしているんですが、絵本を読んだ感想の手紙を返してくださる方もいて、本当に励みになりますし、その手紙は私たちにとっての宝物です。

『手紙 お母さんへ』の表紙

東日本大震災と原発事故の記憶を風化させないようにとの思いから、愛犬・桃の目線で描かれた絵本。

堀川 文夫さん

自分の人生を
「生ききる」ために

浪江町での塾の卒業生も絵本の制作や配布に協力してくれたというのは、堀川さんと子どもたちとの絆の深さを物語っていますね。

嬉しいことに、うちの塾は卒業してからも関わりが続く子が多いですね。20年以上もやっていると、就職や結婚などの人生相談を受けることもありますし、自宅が卒業生たちの憩いの場になっていて、『今度帰省した時は先生のところに集まって飲み会やるからよろしくね!』みたいなことも当たり前でした(笑)。

私は両親や祖父が教員で、自分も教員になるつもりで大学に進学しましたが、国が進める画一的な教育や教科書検定問題などを知り、教育の本質について思い悩みました。結局教員になることはやめて、大学卒業後に10年間勤務した私塾で、その答えを見つけたんです。『塾こそが教育の本道である』と。教えたい人の思いと教わりたい人の思いがあってこその塾であり、教育です。

以来、均質で一方的になりがちな学校教育とは違う形で、子どもたちの自主性や多様性を存分に引き出して、受け止めてあげることを第一に考えてきました。最初の面接でよく親御さんに驚かれるんですが、『勉強は二の次です』ときっぱりと断言しています(笑)。そんなスタイルが浪江町では浸透していて、親戚の子ども2人から細々と始めた塾が、宣伝も勧誘もせずに大きくなって、震災の年には生徒数が68名になっていました。それが一瞬にしてゼロになってしまったショックはもちろん大きかったですが、今はこの富士市で、また少しずつ歩み始めたところです。

堀川さんご夫妻はこれから先、どのような道を歩んでいくのでしょうか?

まず一つは、自らの体験や思いを伝え続けていくことですね。私たちにとってはむしろ、伝え続けることでなんとか心のバランスが取れていて、逆に抱え込んでいると殻の中に閉じこもるしかなくなってしまうんです。地震も津波も原発事故も、静岡県民にとっては決して他人事ではありません。ですが、淡々とした毎日の中でどうしても『まさかそんなことが』『その時はその時よ』という感覚になってしまいがちです。しかし、その時は来るんです。そしてその時が来てからでは遅いんです。あなたの大切な人の命を、愛するふるさとを守れないんですと、強く訴えていきたいです。いざという時の避難経路や約束事を家族で話し合っておくことや、倒壊する危険のあるものを寝室には置かないこと、懐中電灯とスリッパを枕元に用意しておくことなど、今すぐできることはたくさんあります。

それともう一つは、教育の道です。富士市内にもさまざまな理由で学業や生活に困難を抱えた子どもたちがいます。今は塾という形ですが、いずれはそれと違う形でも、この地域の子どもたちを支える活動や居場所づくりができたらと考えています。振り返ってみると、私がこれまでの人生で取り組んできたことの本質は、子どもたちへの教育を通じた人間づくり、地域づくりでした。しかし、世代を越えて受け継がれてきた郷土の営みという縦軸も、同じ地域に暮らす人々がつながり合える信頼という横軸も、浪江町では大きく損なわれてしまいました。富士市に来てからの9年間は、その軸の中に我が身を置いて、もう一度作り直そうともがいている時期でもありました。私たち夫婦はもう決して若くはないですし、インターネットや新しいシステムにも疎いアナログ人間です。ただ、このまま終わるわけにはいかないんです。幸いなことに、私たちには役割があります。あの理不尽で悲惨な経験やそこから得られた教訓を、一人でも多くの人に伝えること、この小さな私塾に集まってくれる子どもたちに、想像する力、自ら動ける力、助け合える力を身につけてもらうこと。

どこまでやれるかは分かりませんが、自分たちが納得できるところまで歩き続けたい。『どこの馬の骨とも分からない避難民』だった私たちが『富士の堀川さん』になれたと思える日が来たら、いつか胸を張って浪江のお墓に帰りたいです。

Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Cover Photo/Kohei Handa

堀川 文夫さんプロフィール

堀川 文夫
学友会教育研究所 所長

1954(昭和29)年4月3日生まれ (65歳)
福島県双葉郡浪江町出身・富士市在住
(取材当時)

ほりかわ・ふみお / 法政大学法学部卒。東京・西早稲田の『育友会教育研究所』に約10年間勤務して研鑽を重ねた後、福島・浪江町に帰郷。1989年より私塾を開設し、以来22年間にわたって着実に実績を残していた中、2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故により被災。妻・貴子さん(写真左)、飼っていた愛犬『桃』、愛猫『みかん』とともに避難生活を余儀なくされる。避難先として住むことになった富士市において、2012年4月に『学友会教育研究所・富士中野台教室』を開所。現在は小中学生11名の学習指導と並行して、被災・避難経験を伝える防災啓発活動を各所で行なっている。2017年10月には震災と原発事故の記憶を綴った絵本『手紙 お母さんへ』を出版し、大きな反響を呼んでいる。

手紙 お母さんへ

日本大震災と原発事故の記憶を風化させないようにとの思いから、がんで亡くなった愛犬・桃の目線で描かれた絵本。堀川さん夫妻を中心に、堀川さんの息子や孫、全国各地に避難した浪江町の塾生や卒業生、富士市で再開した塾の生徒らの協力を得て作り上げた。

【定価】 1,000円(税込)
【取り扱い・問い合わせ】
学友会教育研究所(富士市中野台2-12-6)
TEL:090-2847-9305(堀川)

『手紙 お母さんへ』

Nutshell 〜取材を終えて 編集長の感想〜

原発事故が地震や津波の被害と根本的に違うのは、それが「恒久的に取り返しのつかないこと」だという点でしょう。もちろん亡くなった命は戻ってこない。だけどそこに土地は残り、津波にさらわれた街もいずれ復興に向けて再び歩き出せる。ところが原発事故は、そこにあった世界をまるごと、ただただ消し去ってしまいます。それはたぶん地面のない無重力空間に突然放り出されるようなもので、もがいてもどこにも届かず、どこにも繋がらず、宙を漂う根無し草のように人の存在を不確かな辺獄の中に置き去りにします。

今回のお話を伺って感じたのは「人は、どこかに何かを積み重ねながらでしか生きていけない」ということでした。浪江の土地に積み重ねてきたものは消えてしまった。だけど、そばには長年をともにした家族がいて、散り散りになってしまった元塾生たちとも再び繋がることができ、そして堀川さんには「教育への思い」という、もうひとつの積み重ねてきたものがありました。震災から9年、この地で再び根を下ろし生きていく決意を新たにされたタイミングで堀川さんとお会いし取材できたことに、大きな縁を感じております。

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