舞台復帰の喜びと不安

第9回

 前回のコラムから4ヵ月が経ちましたが、こんなにも着物に袖を通さない日々は、初めての経験でした。
 緊急事態宣言が明け、復帰後初の仕事はオンライン配信用の撮影公演でした。撮影が目的ですのでお客様はいませんが、それでも舞台に立てる喜びを感じると同時に、少なからず不安も覚えました。

 能楽独特の習慣かもしれませんが、リハーサルを行なわないことが多々あります。特に今回のような不定期で特殊な公演では、いきなり本番ということが多いのです。一般的には不定期や単発の公演こそ、入念なリハーサルが必要だと感じますが、逆なのです。その理由は、能楽が古典芸能であり、現行曲が定まっているためです。それぞれが役割をしっかりと稽古していれば、舞台はつつがなく進行するはず。つまり、演者全員が舞台を完全に演じることができる状態にあることが前提となっています。本番までに演者が何度も集い、稽古を重ねて舞台を作り上げる一般的な演劇とは、舞台に対する考え方がずいぶんと違います。

 能ではリハーサルのことを「申合せ(もうしあわせ)」といいます。そもそもリハーサルの目的とは舞台の予行演習を行ない、監督や演出家、演者同士でその舞台をより良いものにする確認作業です。確認し、話し合ったことを本番で行なう約束をする行為ですから、これを「申合せ」と呼ぶのは理にかなっています。また、申合せがある場合も本番どおりに一曲すべてを行なうわけでなく、シテ(主役)とワキ(シテに対峙して演技を引き出す相手役)の問答や舞いの場面など、重要な部分のみとなります。さらには、本番で使用する能面や能装束を身につけることもありません。能面や能装束はそれ自体がとても高価で貴重なものであり、かつ消耗品(特に装束は)でもあるからです。

 そんなわけで、申合せのない復帰戦は正直、不安でした。普段おさらいすることもないような細かい作法を、身体がちゃんと覚えているだろうか。もっと正直にいえば、約4ヵ月もの長い間一度も着物を着る機会がなかったので、着付を忘れてないかどうかが不安でした。女性の着物とは違い、男性の紋付き袴の着付は非常に簡単であるにもかかわらずです。

 私が初めて一人で着物を着たのは、楽屋入りした時です。楽屋入りとは、流儀の定例公演など公式の催しの際に楽屋へ入り、裏方業務を学ぶことです。子ども時代は子役として舞台に出演しますが、変声期を迎えると一度表舞台から退き、大人の能楽師になるための稽古が始まります。だいたい高校生になると楽屋入りしますが、私は変声期を早く終えたので中学3年生で楽屋入りさせていただきました。子どもの頃は周りの大人たちに着付けてもらっていましたので、楽屋入りが決まった時に初めて一人で着物を着る練習をしたのです。今ではネクタイを締めるよりもはるかに簡単に早く紋付き袴姿になれますが、当時は何度やっても襟はグズグズ、袴はダルダルで、うまく着ることができません。楽屋にいても当然、裏方仕事などできるはずもなく、着物を一人で着る練習をするために楽屋へ行くことが仕事のような日々でした。

 その頃から15年間以上、最低でも月に23回は紋付き袴に着替えていましたので、今回の長いお休みが明けた時、もしかしたら着付を忘れてしまっているのでは、などと不安にかられたのです。能楽堂の更衣室で先輩と久々にお会いして、そんなことを話しているうちに、気がついたらなんてことはなく、紋付き袴姿に着替え終わっていまして、やっと舞台に立てる嬉しさや緊張感ばかりが自分の心にあったのです。

 まだまだ不安定な状況ですが、適切な感染拡大予防に取り組んだうえで、能楽を含むすべての舞台演劇は再び、少しずつ動き出そうとしています。早く事態が終息して、いつかまた客席を「満員御礼」とできることを切に願うばかりです。

宝生流能楽師 田崎 甫(たざきはじめ)