行きたくない地獄 行きたい地獄

長崎・雲仙地獄の看板

甫の一歩 第12回

天気や気温が安定しない5月下旬、襟付きの長袖シャツにジャケットをはおり歩いていた私は、ノースリーブ姿の女性とすれ違いました。ある人はもう夏の服装で外出し、ある人は春の服装で外出したりと、さまざまな季節の服装を見かけることはありますが、寒がりで真夏でも半袖シャツのみで外出することが滅多にない私は、少なからず驚きました。まだ気温が上がり始めた初夏くらいだと思っていたのに、気がつくと菖蒲の花は満開へと近づき、着実に夏が迫っているのを感じます。

能の演目はおよそ200曲ありますが、それらのほとんどは春夏秋冬の四季に分類することができます。『宝生流謡曲便覧』という、演目を季節や曲柄ごとに分類した表で季節ごとの演目数を数えたところ、春72曲、夏17曲、秋68曲、冬9曲、不定15曲、このような結果でした。

全部を足しても200曲にならないのは、曲の一部は伝わっているものの、今日では演能しない演目もあるからです。見てみると春と秋の演目で7割を占め、夏の曲はわずか17曲でした。今回はこの数少ない夏の演目より『歌占』(うたうら)という曲を取り上げます。

伊勢国の神職にもかかわらず、神に暇乞いをせず全国を旅したために天罰を受け命を落し、生き返った男、渡会何某(わたらいなにがし)。今は弓矢にいくつかの和歌をつけ、中から一枚選びその意味から吉凶を占う「歌占」をしながら加賀国白山にいました。ある時、白山に住む地元の男が子どもを引き連れ、占いをしてもらうため渡会のもとに訪れます。占いをするうちに、渡会はその子どもが自分の子であると気がつきます。渡会は再会を喜び、帰国する名残に「地獄の曲舞」を舞います。男は地獄を表現するうちにだんだんと神がとり憑いたように狂乱状態になりますが、神に怠りをお詫び申し上げるとふっと正気に戻り、親子ともに故郷の伊勢国へと帰るのでした。

『歌占』のあらすじは、このようなものです。中でも見どころ聞きどころは、「地獄の曲舞」の箇所です。斬鎚(ざんすい)地獄は、臼で身を切断されおびただしく血が飛び散る。剱樹(けんじゅ)地獄は、剱でできた樹や山をよじ登ろうとすると身はバラバラに裂かれる。石割(せっかつ)地獄は石で身を砕かれる。火盆(かぼん)地獄は体中から火を出す。紅蓮(ぐれん)地獄、大紅蓮地獄は氷に閉じ込められ頭を鐵杖(てつじょう)で砕かれる。飢えれば鉄丸を飲まされ、喉が渇けば銅を飲まされる。このようにさまざまな地獄の凄惨な光景を、力強い舞によって表現します。

能のイメージといえば代表的なのは「幽玄」や「優美」といったものでしょうか。しかし『歌占』はこれらとはまったく異なる、おどろおどろしい世界観です。

どうしてこの曲を紹介したかというと、先日、写真フォルダを整理していた時に、一枚の写真が目に止まったからです。

その写真は、「立入禁止地獄内は危険です」と書かれた立て看板を撮ったものでした。じつはこれは、以前訪れた長崎の温泉地、雲仙へ行った際の懐かしい写真です。硫黄泉に浸かり、とても気持ちが良かったのを覚えています。

長崎・雲仙地獄の温泉

長崎・雲仙地獄の温泉は天国のようでした

『歌占』の渡会何某は、同じ地獄の世界でも曲中のような凄惨なものではなく、雲仙地獄の温泉のように身も心も癒やしてくれる地獄へ落ちていたら、一体この物語はどうなっていたのでしょうか。

早く気軽に旅行に行ける世界が戻り、雲仙地獄で癒やされたいものです。

田崎甫プロフィール

田崎 甫

宝生流能楽師
たざき はじめ/1988年生まれ。宝生流能楽師・田崎隆三の養嫡子。東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業後、宝生流第二十代宗家・宝生和英氏の内弟子となり、2018年に独立。国内外での公演やワークショップにも多数参加し、富士・富士宮でもサロンや能楽体験講座を開催している。
田崎甫公式Web「能への一歩」

最新公演情報『能と雅楽』
2021年6月20日(日)

一部 16:00 開演
二部 18:20 開演(同内容)

出演
[小さな能楽] 田崎甫 葛野りさ
[雅楽演奏] 纐纈拓也 三浦元則 音無史哉

ライブ公演チケット: 5,000 円
東五反田 池田山舞台 (東京都品川区東五反田 5-16-13)

オンライン公演チケット: 700 円
インターネット視聴チケットはオンラインショップにて購入可能(公演後もご覧いただけます) →こちら

【問い合わせ】 TEL:050-3570-9939 (留守電にお電話・お名前を録音願います)

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